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2019.11.04
ヘルマン・ヘッセ作「少年の日の思い出」 [ 長谷川 洋 ]

昨日(11/3)、都内で開かれる国語の学習会に参加してきました。今回取り上げられた教材は、中学1年の教科書に載っているヘルマン・ヘッセ作「少年の日の思い出」でした。


チョウ集めに夢中になった少年が、隣の家に住むエーミールが持つ希少な「クジャクヤママユ」の標本を、盗んだあげく、うっかり壊してしまう。母親から諭され、自分がやったことをエーミールに伝える少年。お詫びに自分のチョウの収集を全部差し出すと言ったが、軽蔑され断られる。自宅に戻った少年は、自分のチョウの標本を、一つひとつ指でつぶしてしまう、というストーリーです。


「どうして少年は、自分のチョウをつぶしてしまったのか」。深い読みを目指すこの学習会では「ただの償いの気持ちだけでつぶした、という徳目的な解釈にはしたくない」という共通の思いがありました。


参加者が次々と考えを述べます。この時の私の解釈は「自分のチョウが「いらない」と言われたことで、急に「つまらないもの」に思えたから」でした。


しばらくして講師の先生が「「美」には客観的な「美」と、主観的な「美」がある」と助言した時、ハッとしました。「自分のチョウがつまらないものに見えたのだったら、ただ捨てればいいのに、なぜわざわざ指で一つひとつつぶしたのだろう」。


考え抜いた末の解釈は次の通りです。「エーミールにとっての「美」は客観的な「美」。チョウのコレクション自体の価値が大切。一方、少年の「美」はチョウを前にした胸のドキドキも含めた主観的な「美」。標本の出来栄え以上に大切な、全身全霊を傾けた「美」を追求する姿勢。それは「盗みはいけない」という良識をも超える。そんな「美」を追求する姿勢が理解されないならば、いっそ自分の中に封じ込めておこう、と一つひとつつぶしてしまったのではないか」です。


「盗んででも欲しい」と思えるようなモノが、本当の「美」なのではないか?さて…私のつくる作品は「盗んででも欲しい」と思えるようなモノだろうか?

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